物質界の価値観が死んでも生き残る意図
地上的なしがらみや執着=相対的自己の“思い”を自覚して離脱すると、物質世界の価値観を超える意図に近づく(意図が下りてくる)。しかし、物質的肉体を持つ我々は気を抜くとすぐ同一化・固定化するので、離脱は一度で完了するわけではなく、常に意識的である必要がある。
自分の見方、感じ方、考え方とは物質的個体に染み付いた“癖”であり、それを変えるにも自覚と訓練は必須だ。自らの癖に気づこうとせず、パターンに閉じこもって無自覚に振り回されている限り、一方向に流れる物質世界の時間にただ流されて一歩も動けないまま終わる。
「物質界の価値観が死んでも生き残る志、意図=本当は何がしたいのか?」が最も重要だ。それを自らで追究することなく、一方的に流れる物質世界の時間にただ流されているのは、グルジェフ的にいえば「魂がない、つまり人間ではない」ということだ。
以下は、松村潔氏の過去の投稿より抜粋。
物質世界は一方的な時間の流れの中で作られている。これは変更のきかない川の流れのようなもので、こうなればああなるという因果律がはっきりしている。地上的な欲望、夢、願望はすべてこの一方的な時間の流れの中で形成されている。子供は成長して大人になる。お金はためると増える。運命は変えられるかという議論が時々あるが、そもそも人生の夢や願望そのものが、この決まったコースの中だからこそ形成できているのだということに気がつかないといけない。エーテル体は反対の時間の流れを持っている。なので、このエーテル体の流れを物質界にぶつけると、対消滅してしまい、物質界の一方的な時間の流れの中でのみ成立してきた価値観はあらかた死んでしまう。未来を変えていく切り替え器は、この対消滅の現場にあるのだが、その現場では現世的な希望、目標、夢があらかた死んでおり、それらはどうでもよくなっているということが多く、この現場でも生き残る志が未来を作る。ノストラダムスは、大半の人は運命に流される流木のようなものだと言っているらしいが、対消滅ポイントで杭を打つことができる人は、パラレルワールドを次々と乗り換えて望みの世界に行く。わたしは日食が切り替えに使われると言ったが、その前にそもそも物質界の価値観が死んでも生き残る志、意図がもっとも重要である。本当は何がしたいのか?ということが重要。そしてこの通りの世界ができあがる。