隷属するのか、それとも意図を打ち出すか
たとえば「これが好きだからこれを食べる」というのは単に肉体の欲求に隷属しているだけであって、それは意志ではない。そもそもそうした肉体の欲求すら、過去の経験や外部から影響されインプットされたプログラムであることも多い。「なぜかこうなってしまう」とか「なかなか変われない」とかというのも、そうした自身の隷属性・機械性に無自覚なだけで、はっきり言えば怠惰だということだ。
自分の隷属性・機械性とはいわば癖であり、こうした癖は、たとえば病気をはじめとするさまざまなトラブルや、“なぜかしら”同じパターンを繰り返す原因になっている。延いてはそれは人格の型となり、人生の型になり、業となる。
自分を作る・自分を持つとは、自らの隷属性・機械性を認識し、そこから目を覚ますということだ。そうでなければ、意志を持ち、意図を打ち出すことなど不可能だろう。意図を持つ者にはかなわない。肉体を含むあらゆる環境にただ流されるのか、それとも環境を従えるかも、意図次第だ。意図を持つ者にはかなわない。環境に振り回されて埋没することなく、意図を打ち出すことができれあば、むしろ環境の方がついてくる。
とはいえ、隷属したまま・機械のままでいることが、間違っているとか、どちらが良い悪いということではない。流木のままでいたいのか、それともそこから脱したいかは、それそれだ。