カストールの代表者、目的はゾスマ

わたしのヘリオセントリック土星はカストールと合で、松村潔氏の解説によれば、わたしは地球上ではカストールの代表者だということらしい。このヘリオセントリック土星には、ズベンエルゲヌビと合となる水星が120度で、単純に言えば、わたしは「社会活動家的な物書き」だ。わたしの地球ポイントはゾスマと合なので、これはわかる気がする。獅子座の恒星ゾスマは、マイノリティや犠牲になった人々を載せる獅子の背だ。

わたしがよく犠牲者意識について考察しては書いているのは、まさにこのゾスマの力だろう。ゾスマは、社会などの大きなシステムの犠牲になることを暗示すると言われるが、それはつまり、システムの犠牲者を助ける側に回ることも可能だということだ。(自らの考え方や思い癖によって)自分を犠牲者にしてしまいやすいからこそ、被害と加害というコインの裏表もよくわかるのだろう。

若かりし頃のわたしは確かに根強い犠牲者意識を持っていて、自分のさまざまな生きづらさを、生まれ育った環境や他者のせいにしていた。しかし、今になって振り返ると、あれは結局、自分で自分を引き受けようとせず、“今ここ”から自らの人生を作っていくのを拒否していただけ、つまり怠けていただけだった。

とはいえ、あの頃に「犠牲者意識に浸かり、それ故に極度に偏った視点でしか物事を見ることができず、自らをいつも“なぜかしら”虐げられる立場に置いて、不満や憤りを抱えては、それを他者や環境のせいにする」ことを文字通り嫌になるまで繰り返したからこそ、抜け出すことができたのも確かだ。

犠牲者ポジションにいると、あらゆる都合の悪さを他者や環境のせいにできるだけでなく、「自分は犠牲者なのだから、与えられ、ゆるされて当然」だと思えてくる。そうして“犠牲者”は、他者からの理解を要求し、他者の時間や労力を搾取する。さらには「〇〇が悪い」と怒り、時には攻撃することもあるが、“犠牲者”は加害をしながら、自分は被害者だと主張する。いつまでも自分を犠牲者の立場に置き続けるのは、こうした利得があるからだ。

しかし、それではいつまでたっても人生がはじまるはずがない。自分(自らのあらゆる決断や選択)を引き受けようとはせず、自分自身で意志的に始めよう、作ろうとはしていないのだから、当たり前だ。そういう意味では、“犠牲者”は“今ここ”にいないとも言える。今現在の自分から常に逃げ続けているのだ。

こうした視点が得られたのも、実際に自分がそっくりそのままのことを体験してきたからだ。さんざんやり尽くして嫌になった挙句、犠牲者意識から、延いては犠牲者と加害者という陰陽から抜け出してみれば、人生はまさに自らの“思い通り”だということがよくわかる。