さくらが旅立った後にできた空白

2015年、仕事も関係もモノも思いやプライドもすべて放棄し、「本意でないことは一切しない、もし僅かにでも本意ではないことをやらなければ生きていけないなら、この人生自体がエラーなのだから野垂れ死にしよう」と決意した後に体感した、晴れ晴れとした解放感を久しぶりに思い出した。

それと同時に、さくらが旅立った後の今のわたしには、あの時と同じようにまた大きな空白ができたことに気づいた。肉体にも、意識にも、空間にも、とにかくたっぷりとした余白がまた生まれてしまった。

しかも、わたしは今、さくらが引き寄せてくれたこの居心地のいい街の、広くて快適なフラットに住んでいて、身体の調子もよく、日々のストレスもなく、不満も不足もない環境にいる。

そうか、新たに生じたこの大きな空白に、何か新しいものがやってくるのだなと感じた。そして、これからわたしは、まるで周到に用意されたかのようなこの環境の中で、新しいことをやっていくのだと思った。

母を看取った後、「わたしの人生の第一章がようやく完結した。ここから先は余生であり、そしてこれからこそが本番だ」と思った。

その後に続いた、さくらと共に暮らしたこの3年間は、次の章へと移行するまでに与えられた貴重な時間だったのだと思う。そうして改めて、さくらから、そして母から、とてつもないギフトを受け取ったことに気づいた。

さくらは、わたしたちの大切な家族であり、ある種わたしの分身であったと同時に、やはり母の娘そして分身でもあったのではないか。さくらから「わたしのやることは終わったよ、さあ、次はおねえちゃんがこの人生でやるべきことをはじめる時だよ」と言われているようだ。