Vと話していて改めて確認したのは、わたしが惹かれる/描きたい/撮りたい眺めは基本的にがらんとして空白や余白が多く、多くの人にとっては退屈な、あるいはよくわからないものかもしれないということだ。
実際に、描かれた/撮られたものがはっきりと何であるかわかる絵や写真の方が、他者からの反応が多いのは確かだ。とはいえわたしはこれからも変わりなく、自分が惹かれる眺めやものを、描いて/撮っていく。
そして、わたし自身もなぜそういう眺めやものに惹かれるのかはわからない。わからないから描きたい/撮りたいのかもしれない。そしてそれでいい。夢で見たような、あるいは遥か昔の記憶のような、自分の中にある懐かしいところに呼応する眺めやものに惹かれ続けている。
先日互いの写真集を贈りあったイスラエルの写真家とは、おそらくそうした感覚的なところで共振しているのだと思っている。見ている/感じているものが近いのだろう。そしてそれはおそらく肉の目で見えるものではない。偶にこうして感覚的に共振する人にぽつりぽつりとめぐり逢うのはおもしく、そして嬉しい。