7年前のこの決断と野垂れ死にの覚悟の末に今のわたしがある。意識も在り方も生活も何もかもがオセロのようにひっくり返った、その始まりの時だった。あまりにすべてが終わって死んでひっくり返ってしまったので、以前の自分は別の誰かの過去世のようにすら感じられる。社会内相対的自己が死に、そこからもっと大きな自己がはじまったのだった。
右上の第二大臼歯は昨年チェコの歯科医院で抜歯し、現在は骨の再生を待っている。左上の第二大臼歯は、同じ歯科医院で精密根管治療を受けた後ファイバーコアとセラミッククラウンが装着され、まるで自分の歯のように蘇った。
2015年8月22日の記録
先週はじめに右上の第二大臼歯がひどく痛みだし、急遽見つけた近所の歯科医院に飛び込んで数年ぶりに治療を開始した。この歯は過去にも根管治療を受けていたが、再び根の治療をすることになった。
ひとまず痛みも治まり一息と思いきや、翌日には反対側、左上の第二大臼歯が猛烈に痛みはじめた。ボルタレンを服用しても眠れないほどの痛みに、仕事を休んで久々に寝込んだ。初めて体験するレベルの痛みだったかもしれない。何も噛めないので食事ができず、あまりの痛みに眠ることもできなくてひどく消耗し、ひたすら休むしかなかった。
そんな中でふと、痛みを訴える歯に意識を傾けてみた。そして、左右同じ位置の歯(いずれも過去に根管治療を受けたことがある)が同時に根の再治療を求めてきたことから、ごく個人的なメッセージを受け取った。痛みは、わたしが無意識にため込んでいた怒りであり、解放を求めていたエネルギ―だと感じている。それは、自分自身に対する怒り。そして、家族家系から引き継いできた抑圧と怒り。
痛みに耐えて疲労を抱える身体に「どうしたい?」と尋ねると、「休みたい」という。そうだよなと納得する。わたしは長い間本当の意味で休んだことはなかったかもしれない。これまでずっと、社会で必要とされるため、そうして何かを獲得するために、動き続けなければ生き延びられないという不安を身体に押し付けてきたように思う。
今年に入ってから、まるで大波に何度も洗われるかのようにあらゆるものが終わりゆき、物理的にも精神的にも断捨離を重ねてきた。その流れは加速するばかりで、あらゆる物事がどんどんゼロに向かっていく。そんな中でわたしは、次への準備をしなければと無意識に焦っていた。
貯蓄はまったく無いし、秋以降の身の振り方は何一つ決まっていない。周囲からアドバイスを受けるたびに無意識に焦りを募らせていたのも事実で、自分で自分を追い込んでいた。夏前から既に身体は「休ませて」と訴えていたが、猛烈な歯の痛みによっていよいよその声に従うしかなくなった。
「役に立たなければ価値がない」とばかりに懸命に頑張り、誰かや何かのために働かねばならないと思いこみ、収入や承認を得るために立場や役割を担う。いつからかわたしはそういうサイクルに陥っていた。昨年のポルトガルへの旅が、そんな自分の虚しくも苦しい空回り状態に気づかせてくれた。そして、そこからどんどん終わりが始まっていった。
身体は「何もしたくない、休みたい。」と訴えている。ならば、休もう。収入のあても次の一歩も考えるのはやめて、とにかく静かにゼロへ向かおう。誰かや何かの役に立つために働くのを辞めるのだ。「これを続けなければ、生活が、人生が、アイデンティティが、保てない」という無意識の思い込みごとすべてリセットしよう。
ただし、職場には9月末まで在籍予定なので、そちらは日数は減らしながら退職日までは勤務する。後任者も決まったし、業務の引き継ぎもある。
この決断は、貯蓄ゼロという状況から生じる不安もすべて受け止めて、僅かでもやりたくないこと=身体つまり本心に背くことは一切やらないと徹底し、ひたすら放棄してゼロに還ればいったいどうなるかという実験でもある。
さて、La Pausa。