体裁を脱して
「自分自身の絶望的な無力さを認めたところで、ではどうするかというと、単独で夢中になれる行為に自分を余さず投じるしかない。人に働きかけるのをやめて陶器の皿ばかり作っていたという晩年の出口王仁三郎みたいに一人で内へと向かって最終的にはひっくり返るような行為に没頭するしかない。それしか『生きる』術はない。あとはたくさん眠って肉体を抜け出し、たくさん夢を見るだけだ。いずれも体(と体に纏わるあらゆる重たいこと、体裁)を破ってはみ出していくこと。つまり『人』であることから脱するということ。」
3年前の今日、このようなことを書いていた。
体から抜け出し、はみ出し、上へも下へもどこまでも広がって、どんどん“人”ではなくなっていくのがいい。そうしてどんどん自分を超えていくことだ。それは、自分をどんどん大きくすることでもある。そうして、あらゆる他者、あらゆる存在を、自分の中に見出し、呑みこんでいく。
“人”ではなくなる、つまり体裁を脱するとは、立場や肩書き、属性、他者からの評価や比較等々、小さな自己=社会の中の相対的な自己を脱していくことなので、社会的には“人でなし”になる。“人”ではなくなるのだから当然かもしれない。たとえば仙人だって“人でなし”である。