ある人とのやり取りの中に「自分の考えや感覚を適切な言葉に変換するプロセスに時間がかかる」とあったので、言語化にも訓練が必要なのだと答えた。訓練とは、自分の感覚や感情にふさわしい言葉を探して選ぶだけでなく、自分の中の言葉のストックを増やすことも含まれている。アウトプットのためには、インプットが不可欠だ。
たとえば、もし「悲しい」という言葉を知らなければ、自分の中に痛いような辛いような苦しいような感覚が生じた時に、一体どのように表現すればいいだろうかと想像してみる。言語を習得していない乳幼児などはまさにその状態を体験しているのではないか。
そう考えると、わたしたちは言葉を習得することによって、自らの感覚や感情を認識するようになるとも言える。「悲しい」という言葉を知り、その言葉に対する共通認識を自分の感覚や感情にあてはめることによって、「わたしは今、悲しいのだ」と気づくことができる。
しかし、それは同時に、わたしたちは言葉にとらわれやすいということでもある。実際にはもしかすると他にもっとふさわしい言葉が見つかるかもしれない感覚を、「わたしは悲しい」と言葉にすることによって、「悲しい」という枠におさめてしまうこともできるからだ。
もっと言えば、そうして実際とはズレがある言葉を使い続けることによって、そう強く思いこむことすらできてしまう。それはつまり、自分に呪いをかけてしまうということだ。言葉を知ることと、言葉にすることとの間にある内的プロセスを怠ると、そういう傾向は強まるのではないか。
たとえば、わたしは「毒親」という言葉が頻繁に使用される傾向に違和感を覚えていた。”毒になる親”と言いたいのだろうが、そもそも人は誰しもが誰かの毒にもなれば、薬にもなり得る。親を毒と呼ぶのは、自分を”毒された被害者”の位置に置くということで、それでは根本的な解決には至らないと思ったからだ。
そんなことを思いながら、自分が何気なく口にしている言葉、なんとなく書いている言葉は、果たして本当に自分の内的プロセスを経たものであるかどうかを観察する必要があると感じた。どこかで見知った言葉ばかりで手軽に自分を語っていると、自分そのものが借り物あるいは偽物になってしまう。
そうして、やはり、自分の感覚や感情を言葉で表現するためには、訓練あるいは意識的な練習が必要なのだと思う。言葉に触れ、言葉を知り、言葉を吸収すると同時に、自分の中で言葉を消化し、磨いて、自覚的にデザインしていくことが必要なのだ。
数日前、「自分を持つとは、自分の言葉を持つことだ。自分を生きるとは、自分の言葉を自ら発掘して、自分を作り、そうしてそれを生きること。」と書いた。自分の言葉を作るとは、この意識的な訓練のことだと言えるかもしれない。なぜなら、人は自らが語る言葉どおりになるからだ。人は言葉を語り、語る言葉が人を作る。自覚的に語ることは、自覚的に生きることに通じる。