物語を通さずただ見ること

他者に対して感じること思うことというのは、それが否定的か肯定的かに関わらず、自分の中にある無自覚な期待や信条、判断基準を明らかにするものであり、「他者は自分を写す鏡である」とは、そうした他者に対して生じる感情の元となっている自分の中の無自覚な”思い”に気づくことを言うのだろう。

以前にも書いたが、たとえば誰かに対して「あの人のようには絶対になりたくない」と思うとすれば、それは、その人物と同じ性質や傾向が自分の中にもあるということだ。なぜならそれは、自分が無自覚に拒絶し否定している自分自身の側面=影にしているものを、その人物に投影して見ているということなのだから。

今日は朝から「自分の中の物語を通さずに他者を見る」ことについて考えていた。それは、あらゆる期待、信条、思い入れ、判断などを取り払って、その他者をただ見るということだ。そして、それは、あらゆる期待、信条、思い入れ、判断を超えて自分自身を見ることによってのみ可能なのではないかと改めて思った。

あらゆる他者に対して常に”自分の中の物語を通さないまなざし”を持ち続けるのは容易くはない。しかし、「わたしは自分の中の物語、即ち、期待、信条、思い入れ、判断を通して他者を見ている」と自覚することはできる。誰かに対して特定の感情や思いが生じた時に、そう自覚できるかどうかの違いは大きい。