期待に応えない、役に立とうとしない
先々週から家の中に篭り続けている。頭は写真を撮りに出かけたいというが、本心は外に出たくないというので、じっとしている。
過去に撮った写真を何度も見返し、良いなと感じる他者の写真を眺めて過ごしている。自分の中で何かしら変容が起きているのを感じるが、それが形になるのはまだ先のことだろう。
昨年以降ずっと人付き合いをしない生活を送っているので、Vとさくら、近所の人々以外には会わない状態が当たり前になっているが、そんな中でも、意識や行動が外へ向かう時と、内へ向かう時とがあり、波のように静かな変化があるのを感じる。以前ならば躁鬱として生じていたゆらぎも、今は自然のうつろいとして感じられる。
オフィスに身体を運ばなくてもよく、必要な道具さえ揃っていればどこからでも仕事ができる現在の環境は本当に快適だ。毎日定時にオフィスへ通い、他者によって定められた時間通りに働いていた過去の状況を思い返すたびに、一体どうやってあんなにも忙しい生活を続けていられたのかと不思議にすら思う。
当時のわたしの中では、ある種のプログラムが延々と稼働していたのだろう。自らの自然なうつろいや感覚を遮蔽して機械的に動いていたのでなければ、あのような生活を送れるはずがない。だから、あの頃のわたしは、肉体も精神も周期的にダウンし、振り幅の大きな躁鬱を繰り返していたのだと思う。
あの頃わたしはまだ、社会の中の相対的な自分がメインであり、他者や社会の役に立つことが重要で、立場や居場所を失えば生き延びられないと信じていたのだから、仕方ない。しかし、そんな状態もやがて限界に達した。あの時、全てを放棄してしっかりとあきらめる力がわたしの中にまだ生きていたのは幸いだった。
あれ以来わたしは、他者の期待に応えたいという自分の思いに応えるのをやめた。他者や社会の役に立つという大義名分も外側から取り込んで植え付けた借り物の思考でしかなかく、わたし自身は役に立ちたいなどとは微塵も思っていなかった。期待に応えず、役に立とうともせず、ただ自分自身のために生きると決めたのだ。
それはまた、自分の中に在るあらゆるもの、自分のあらゆる感覚・感情・行動を、いちいち良いか悪いかに振り分けるのをやめたということでもある。役に立とうが立つまいが、生産的であろうがあるまいが、どちらでもいい。それは後に残る結果であり、他者や社会のその時々の都合によって判断される相対的評価でしかない。そして、それはわたしにコントロールできるものではないし、する必要もない。重要なのは、常に今この瞬間の自分という事実を認識し、自覚的に自分を生きることだ。
相対的な価値基準に照らし合わせて自分を判断するのをやめると、どんな側面もただのうつろいとなり、否定や拒絶、即ち”影”が減る。”影”にしていた側面と力が自分に統合されていく。そうして、自分の外側の世界に対しても同じ視点が得られる。