自分とは自然と在るものではなく自ら意図して創るもの

何かに対する反応として生じる感情や思考は、ある種のプログラミングによる機械的反応のようなものであり、その多くは、たとえば親や教師や周囲の人々や社会など、自分ではないものを通して植え付けられたものだということを改めて考えていた。

「自分」あるいは「自分の感覚、感情」というものが当たり前のように在るように思いこんでいるけれど、実際にはそれが、自分ではないものによってプログラミングされた無自覚な機械的反応でしかないのだとしたら、では「自分」とはいったい何なのか?という問いが生じる。

「自分」とは、自ら意図して創り出していくしかないものではないか。何かに対する反応ではなく、何かとの境界線やそこに生じる摩擦や違和感でもない、何にも依らない「自分」というもの。それはやはり「意図」あるいは「意図を持つ」ということなのかもしれない。

そんなことを思っていたら、「ノストラダムスは『大半の人は運命に流される流木のようなものだ』『未来を選び、その方向に進んでいくことができるなら、流木のように生きる人ではなくなる』と言っていた」という話を思い出した。ノストラダムスが言うところの「流木」とは「ロボット」みたいなものか。