物理的な移動ではなく
日本にいた頃はいつもあんなに旅に憧れていたのに、最近は旅への欲求も随分と減った。訪ねてみたい場所は今でもあるし、会いに行きたい人もいるけれど、以前ほどの強い思いはなくなった。行くべき場所にはいずれ行くだろうし、会うべき人にはいずれ会えるだろうから、それで十分だ。
思うに、あの熱烈な旅への憧れは、自分が身を置いていた場所や社会からの逃避または脱出への欲求だったのではないか。立場、役割、関係、要するに”自分”という「おはなし」をリセットしたかったのかもしれない。社会内相対的自己が自分だと思いこんで生きていれば、そうなるのも仕方ないだろう。
しかし、社会の中の相対的自己を自分だと思いこんでいる限り、どれだけ旅を重ねて”リセット”したところで、それは「おはなし」の入れ替えでしない。いくら場所を移動し、身を置く環境を変えたとしても、結局は横軸のバリエーション増加でしかないので、ますます旅を求め続けるというスパイラルすら生じそうだ。
今となっては、自分が暮らしているこの小さな街の中ですら、一生撮り続けても終わりがないものに溢れていて、それに専念しているだけであっという間に肉体的な死がやってくるだろうし、それで十分だなと思う。もちろんいずれは時に旅にも出るだろうし、何かを求めて足を延ばすこともあるだろうけれど。
立場でも役割でも属性でもない現象としての自分を生きるのに必要なのは、場所の移動や関係の変化といった横軸のバリエーション(つまりは物理的条件)ではなくて、縦軸の動きなのだと改めて思う。