体に生じるあらゆる炎症は怒りを象徴していると以前に読んだことがある。わたしの場合、上顎大臼歯の根の周囲に炎症が見つかった。痛みも表立った症状もほとんどなかったし、数年前に根管治療を受けていたので大丈夫だと思って忘れていた。
だが、実際には、見えないところで炎症は広がっていた。それはつまり、大丈夫だという思いは頭の都合でしかなかった(そう思っていたかった)ということだろう。頭がすっかり「無いもの」として忘れていた間にも、身体という自然の中では必然的な現象(炎症)が起こり続けていたということだ。
歯科クリニックで診断を受けた後、説明のつかない深く静かな悲しみがじわりじわりと溢れ出してあらゆる思考を覆った。気付かぬうちに手が付けられないほど炎症が進行していたという事実にショックを受けて、しばらくは何もできなかった。歯の根の炎症という怒りの奥にあったのは悲しみだった。
あれから2週間が過ぎた。溢れ出した悲しみは、ただただじっと受け入れているうちに少しずつ溶けていった。そして今日、あの悲しみは、思い通りにならないという落胆だったのではないかと思った。必要な助けを得られなかった(求められなかった)悲しみ。思うように受け入れてもらえなかった悲しみ。
たとえば、幼かった頃、親から否定されたとか、求める助けが得られなかったとか、そうした体験の中で生じた悲しみを深いところにしまいこんで忘れていたのかもしれない。わたしの頭はそれを「どうせ助けは得られない」といった思い込みに編集し、それが無意識のパターンになっていたのかもしれない。
ここ数日は、自分の身体に生じたことを通してだけでなく、Twitterで他者のツイートを見ながら、やはり同じことを思っていた。様々な人たちがそれぞれ違った表現をしているように見えるけれど、その根底にあるのはやはり悲しみなのではないかと感じた。他人を含むあらゆる外部に対する期待と落胆。そんな風に他者のツイートを眺めがら、自分に起きていることを振り返っていた。
そして、わたしが見ている他者はやはりみな自分自身なのだなと感じた。根底に悲しみがあるなら、その悲しみを認めない限り同じパターンを繰り返す。いくら頭で理解したつもりでも、影になっている感情が消えることはない。
影にされた感情は、実は常に何かしらの形で表出しているのだろう。体に生じる症状はまさにそれだ。影があること、影にしてしまうことが「間違っている」のではない。人として生きている限り、わたし(たち)は常に自分の内外に影を作りつづける。だから、それが現れるたびに、受け入れていけばいい。
溢れ出した深く静かな悲しみが溶けていった後、ひどく無気力な状態を経て、自分の視点がまた少し変化したのを感じている。そして、歯については、今後の治療と可能性について歯科医と綿密なやりとりを重ねている。